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Les presento la música latina con una traducción japonesa.

2016年8月7日日曜日

La Secta - La Locura Automática

プエルト・リコのロックバンド、ラ・セクタの失恋バラードです。
タイトルのLocuraは狂気、Automáticaは説明不要で想像がつくと思います、オートマティックのこと。ただしそのまま「自動的な狂気」とするのはなんだか文学的ですが意味がわかりません。
このAutomático(a)には他にも、無意識的な、必然的な、などといった意味がありますので、文脈から察するに「お前に会えないのだから俺の気が狂ってしまうのは当然なのだ」という意味でしょう。
切なくもカッコイイ曲ですが歌詞を見ると女性に泣きついているかのような内容に笑えませんか?



この哀れな心を責めないでくれ
この俺が悪いことなんかわかってるさ
わかってくれ、俺はお前に誠意をもって話してるんだ
あの情熱に溢れていた頃を覚えていないのか
生きるのに、たったひとつの理由しかなかった
あの頃は、すべてが幸せだった

もしもう一度お前に会えないとしたら
俺はどうしていいのかわからない
涙の海の中に沈み込んでしまうだろう
もしもう一度お前に会えないとしたら
俺は気が狂ってしまうだろう
それは俺にとって必然的な狂気なんだ

今日はお前と知り合った日のことを思い出してる
お前は俺の人生を照らす光になったんだ
そして誓おう、それは決して変わることはないのだと
もしお前が過ぎてしまったことについて
もう一度考え直してくれるのなら
もし俺達の愛にもう一度チャンスをくれるのなら
俺は今すぐにでもこの心の全てをお前に捧げてもいい

もしもう一度お前に会えないとしたら
俺はどうしていいのかわからない
涙の海の中に沈み込んでしまうだろう
もしもう一度お前に会えないとしたら
俺は気が狂ってしまうだろう
それは俺にとって必然的な狂気なんだ

2016年7月5日火曜日

Thalía - Amore Mío

先日、『翻訳がつくる日本語―ヒロインは「女ことば」を話し続ける』という本を読みました。外国人女性(特に白人)のセリフが、現代日本人女性には普段使われていない「~だわ」や「~なのよ」といった女性言葉に翻訳されるのはなぜか、といった疑問について論じます。

も言われてみれば女性歌手の歌詞を翻訳するときに心当たりがありますね。
というわけで、今回も思いっきり女性言葉で書いてみようかしら!
ところで、Amore(アモーレ)はサッカーの日本代表、長友選手(インテル所属)の交際宣言で先日話題になりましたね。




私に今起こってること
あなたに話したいの
毎日起こるわけじゃないんだから
しっかり聞いてね
それはなんていうか、素敵なことで
あなたはきっと気に入ると思うわ
もし私があなただったら
目をよく開き、耳を澄ませて
五感を研ぎ澄ませるわ

愛しいあなた
なんだか今日はいつもよりあなたが好き
たぶん、海が月に恋をしたから
優しさが私から溢れてきて
今日は空を飛びたい気分

愛しいあなた
単語3つだけで
この体から寒さを取り払って
この魂から、この心から
ねえ、わかってるの?
ねえ、愛しいあなた

あなたはまだ上の空で
もしわかってないんだったら
もう一度説明してあげる
それはなんていうか、素敵なことで
あなたはきっと気に入ると思うわ
もし私があなただったら
目をよく開き、耳を澄ませて
五感を研ぎ澄ませるわ

愛しいあなた
なんだか今日はいつもよりあなたが好き
たぶん、海が月に恋をしたから
優しさが私から溢れてきて
今日は空を飛びたい気分

愛しいあなた
単語3つだけで
この体から寒さを取り払って
この魂から、この心から
この心から

もうこれ以上説明のしようなんてないわ
今日はあなたの詩なんて欲しくない
あなたの激しいキスをお願い
あなたを感じるため
あなたを愛するため
あなたに触れるため

愛しいあなた
なんだか今日はいつもよりあなたが好き
たぶん、海が月に恋をしたから
優しさが私から溢れてきて
今日は空を飛びたい気分

愛しいあなた
単語3つだけで
この体から寒さを取り払って
この魂から、この心から
ねえ、わかってるの?
ねえ、愛しいあなた

2016年3月15日火曜日

Marco Antonio Solís - Dónde Estará Mi Primavera

イントロからして超もの悲しいのです、春なのに。
タイトルは「私の春はどこにあるのだろう」といった意。「primavera」はスペイン語で「春」のことですが、四季のひとつである他に、青春時代を表す単語でもあります。「en la primavera de la vida」は「人生の春に」が直訳、つまり「青春時代に」という意味。
日本語でも「青い春」と書いて「青春」。それぞれの成立過程において全く共通点がない二つの言語の単語が持つイメージまで共通しているのは言語学的に珍しいのではないでしょうか。
春という季節が人生の比較的若い時代の生命力や瑞々しさに重なるためでしょうか、言語や民族、文化や伝統が違っても、人間の感性は通底しているのか、考えてみれば不思議なようで、それでいて当然な気もします。



私はあなたに多くの愛の借りがあって
だからもう諦めることにした
あなたに愛されてたのはわかってる
それはちゃんと感じていた
あなたの許しの中で眠りにつきたい

私は自分にこう言い聞かせる
あなたは去ったのではない
旅に出た、ただそれだけなのだと
あなたを思い出し悲しくなったら
思い出を孤独と道連れにやっていこう

私がいないことがあなたにとって
長い旅に出るための大きな翼であって欲しい
多くの経由地の一つである私のことは忘れてしまっても

私はこの無の中ですべてを語り
自分の生き方を探し求めよう
歳月が自分の記憶を閉ざしてしまうまで
私はこう問いかけ続ける

私の春はどこにあるのだろう
太陽はどこに隠れてしまったのか
私の庭を忘れてしまった太陽
魂が私を枯れさせてしまったのか